「………あれ?」
支倉累は、足を止めた
そしてたった今視界を通り過ぎた物を思って首を傾げる
何処かで見た事のある顔
テレビで見たとか雑誌で見たとかそんな曖昧な記憶じゃない
はっきりとくっきり
繊細に記憶に残っている物がさり気無く視界を横切ったのだ
そして累は辺りを見回し、其れを探す
すると其れは思いの他あっさりと見つかった
「……蟹名、静?」
其の顔は美しく
髪も心なしか伸びていて優雅に微笑んでいる
笑顔が飾られているCDを手に取ると自然と足はレジへと向かっていた
ずっと昔にほんの数時間しか時間を共にしていない彼女
でも心の中にずっと居座っていた人
帰りのトラックの中で信号待ちの間、CDを取り出して掛けてみる
綺麗な音がしばらく流れて
そして彼女の美しい歌声が聞こえてきた
何と歌っているのかは判らないけれど
其の旋律は何とも言えない感動を与えてくれる
「静さん、日本帰ってきていたんだ」
最近やたらと周りに現れる人々
其の突然さに皆戸惑っているけれど、
累は人知れず思っていた
彼女達は私達の輪に加わって新しい日常を与えてくれるんだ、と
だから私達は其れを喜んで受け入れるべきだ
なのに皆変化が訪れる事を恐れている
何でだろう
其れはとても喜ばしい事なのではないのか?
ハンドルを掴んでいる指でトントンとハンドルを叩きながら考える
「知らせるべき、だよなぁ…」
「ただいま〜」
「おかえり、そして行きましょう」
「えっ?」
玄関を開けて靴を脱ぐと
リビングから江利子さんが飛び出してきた
そして有無問答で私の腕を掴み、再び靴を履くように指令してくる
其の顔の真剣さに思わず逆らわずにいそいそと靴を履き直す
そのまま降りたばかりのトラックの運転席に押し込まれ、
江利子さんは助手席に乗り込む
「聖の家に行って」
「ハイ」
声が上ずって、変な答え方になってしまった
でも何も言わずにエンジンを掛けてアクセルを踏み込む
少ししてトラックのCDプレーヤーの中に入ったままだったCDが作動する
其の歌声に聞き覚えがあるのか、
江利子さんは顔を顰めて助手席のボンネットを探り出した
そして現れたカセットに映っている静さんを見て息を呑む
呑むなり私の方を向いて、胸倉を掴んでくる
其の乱暴さに私は思わずよろけてしまい、同時にハンドルも大きく傾いた
幸いな事に人通りの少ない大きな道だったお陰で其の大きな車体は無事だったけれど
私の寿命は無事じゃなかったに決まっている
慌ててハンドルを持ち直して、江利子さんの手首を掴み
自分の胸倉から離そうと努める
けれど何故か彼女は怒っているらしく簡単には離してくれない
「どういう事?」
「どう、って…別に今日立ち寄ったCDショップで見かけたから買っただけだよ」
「蟹名静は日本に居るって事?」
「私に聞かれても。でも其のCDは日本で制作したものだからそうなんじゃない?」
「ああもうっ!どうしてこう次から次へと問題が山積みになってくのよ」
ちゃんと筋の通っている正論を述べてみても江利子さんの怒りは静まらないらしい
苦笑しながら煙草に手を伸ばす
「大丈夫だよ、其の山積みの問題達は私達をどうこうしたくてやってきている訳じゃないんだから」
「……でも解決するのに労力が要るわ」
「江利子さんいつも言っているじゃん、トラブルが起きてこその人生だって」
「………」
取り出した紙の筒を咥え、
江利子さんをちらりと見やると不満そうに顔を顰めたままだった
此れはどうしようもない
幾ら私でもお手上げだ
多分普段よりも頭の回転が遅いのは怒りという感情が邪魔をしているせいだ
其の怒りの原因を私は知らないから
恐らく今向かっているであろう2人の親友しか宥める事は出来ない
だから私は迂闊に手出しをしないでおこう
火の灯ったライターが運転の振動によってゆらゆらと揺らぐ
まるで蜃気楼のように直ぐに消えてしまいそうな程力無いものだった――――――――
「……どゆ事?」
首を傾げる累に、江利子はイラッとしたように目配せをする
けれど累は其れでは判らないと肩を竦めてみせた
聖の家に居るのは其処の住人である聖と蓉子
そして今しがた辿り着いた江利子と累と、
幾分前から居た様子である令と祥子の6人
1人置いてけぼりにされた子供のような拗ね方をする累を見かねた令がこっそりと説明する
「だから栞さんっていうのは、伊音ちゃんのお母さんなんだよ」
「うん、其れは判ったってば。でもどうして会うのを戸惑うのか判らない」
「えっと…聖さまと栞さんは昔高校時代にいろいろあってね……」
「其のいろいろが判らない」
「うぅん、だからね」
垂直な疑問を怯む事無く発言してくる姉に、
令は至極困った顔をして頭を抱え込む
累を挟んで令の反対側に立っていた祥子が累の服の裾を引っ張って呼ぶ
顔を向けてきた彼女に、祥子は令の後を受け継ぎ説明を始めた
「聖さまの初恋の人でね、シスターになりたいという夢をお持ちだったのよ」
「ふんふん」
「其れで聖さまとの恋はもちろん周り中から反対されたそうなの。其れで、栞さんは夢を追いかけて」
「聖さんを置いて何処かへ行ってしまったって事?」
「そうよ、…判った?」
「ふぅん」
勘の鋭い累が物語の結末を先読みしてみせると、
祥子も苦笑しながら累の顔を覗き込む
累は只鼻を鳴らしながら頷いただけで
目線をリビングに置かれている食卓に座っている聖にやる
彼女の顔は蒼白なもので、
此れからまるで恐ろしい化け物がやってくるかのような
其れくらい生きた心地のしないものだった
なるほど
此れでやっと今までの事が合点いったと、累は腕を組み壁に寄りかかる
「どうして…勝手に君の所に招待するの?令…」
「申し訳ありません、聖さま。……軽率でした」
「謝らなくていいわよ、令。誰かが1歩踏み出さなかったら何時になっても何も変わらなかったんだもの」
掠れ掠れの声で呟く聖
そんな先輩に居た堪れなさそうに頭を下げる令に、蓉子が微笑んで助け舟を差し出す
けれど既に項垂れてしまい、見ている此方も痛々しいくらいに顔を歪ませている令の肩に祥子が手を置く
累はそんな光景に人知れず静かにため息を吐きながら、
食卓から少し離れてるテレビの前の大きなソファにどかっと座り込む
その際非難染みた視線を向けてくる江利子と目が合うが、累から目を逸らした
「とりあえず令の家には私は行くわ、いろいろと話したい事があるし」
「でも蓉子!栞は…」
「落ち着きなさいよ、聖。私は貴方の事で話しに行くんじゃないわ、の事よ」
「………判った」
蓉子が言うと、
聖ががたんと静かに立ち上がる
其の場に居た全員の目が聖と一緒に上向きになった
其れを浴びながら聖は口をゆっくりと開く
「私も、行く。栞に会うよ」
全然判らない
伊音のお母さんは初めて見た
思っていた通り物静かで伊音にそっくりだ
其れでいてとても綺麗だった
でもあんなに優しそうな人が私と伊音の関係を反対するなんて信じられない
まだあの人の口からはっきりと聞いた訳ではないけれど
多分あの人も聖と同じような考えを持っているんだろう
今度令の家に来ると行っていた
其の時、蓉子は絶対来る筈だ
でも聖はどうだろう
そして私のまだ知らない事情があの人達の周り渦巻いている
私と伊音の間にもしかしたら大きな謎が待ち受けているとか?
…まさかそんな筈ない
例えば本当の姉妹だった、とか
そんな筈ない
だって私は一人っ子であの両親に虐げられていたんだから
うん、そんな昼ドラみたいな展開じゃないだろう
じゃあ何だろう?
そんな事を考えながら街をぶらついていたら、
ふと後ろから声を掛けられた
「ちゃん…?」
以前伊音と一緒に居た時は累さんだったけれど
令が累さんも皆私の家に集まるって言っていたから其れは有り得ない
其れに聞いた事もない声だ
少し警戒しつつも振り返ってみたら、やっぱり知らない人だった
真っ黒な髪で、少しキリッとした目つきが印象に残る女性だ
彼女は微笑みながら私の方へと近づいてくる
そして目の前に立つと、
私を見上げながら頭を軽く下げてきた
「間違えていたらごめんなさい、貴方…佐藤ちゃん?」
「……そう、ですけど」
「嗚呼、やはり!」
彼女は満足そうに頷いてから私の顔を遠慮なくマジマジと見つめてくる
私が怪訝そうに眉を顰めてみせると彼女はくすりと笑った
「私は貴方のお母さん方の古い友人なのよ、其れで貴方の事少し噂に聞いていて」
「聖達の?」
「ええ…えぇと、今此処で祐巳ちゃん達とお茶をしていたのだけれど」
そう言いながら彼女は側にある喫茶店に目をやった
其処のテラスには飲みかけの紅茶が3つ分ある
なのに其の場所の主達は誰一人居ない
否、正確には其の1人は此処にいる此の人らしいけれど
「祐巳ちゃんと志摩子さんなんだけど、今お手洗いに行っていてまだ戻っていないわ」
「祐巳ちゃんと志摩子と…同級生とか?」
「いいえ、私は1個上で…そうそう、令さんと祥子さんと同級生なのよ」
「……全然知りませんでした」
「そりゃそうだと思うわ。だって私此の間までイタリアに居たんだもの」
「イタリア…」
悪戯っぽく笑いながら彼女はそう言った
其の時私の視界の端に見慣れた顔が現れる
席に居ない此の女性を探している様だけれど、
直ぐに正面の往来に居る私達を見つけて嬉しそうに手を振ってきた
「ちゃん!静さま!」
ふふ、と微笑みながら手を振り返している彼女の名は"静"と言うらしい
「しずか…何処かで聞いた事ある……聖と蓉子が話していたような」
「あら、光栄だわ」
そう言いながら"静さま"とやらは私の背に手を添えて
祐巳ちゃんと志摩子の居る所まで導いていく
空いている席に座ると、
直ぐに女店員がやってきて注文を私に尋ねてきた
とりあえずコーラ、と告げると女店員は少し頬を赤らめたまま頭を下げて店内に引っ込んで行った
「…さては、あの人も私の事男と勘違いしているな」
「だってちゃん最近めっきめきと男らしくなっているもん!」
「其れは褒め言葉かな?祐巳センセイ」
其の背中を見つめながらぼそりと言った私の言葉が聞こえていたのか、
祐巳ちゃんはケラケラと笑いながら私に指摘してきた
多分悪気は無いんだろう
でも少なからずともムッとした私は祐巳ちゃんの頬を掴んで軽く横に引っ張る
「いたたっ、センセイに手を出しちゃ駄目なんだよっ」
「其れはすみませんでした、セ・ン・セ・イ」
態とニッコリ微笑みながら先生という言葉を力強く言ってみると、
祐巳ちゃんはぷくっと膨れた
「私、先生としての威厳ないのかなぁ?」
と、真剣に悩みだしてしまう様子が可笑しくて噴出してしまう
酷い!とぽかぽか殴ってくる彼女を片手で受け止めながら宥める事に努めてみる
全然昔と変わっていない祐巳ちゃんと比べて大人の態度でにこやかに此方を見つめている志摩子と"静さま"
「そういえば祐巳ちゃんはちゃんの担任なのよね?」
「ええ、そうですよ。何の因果か小学から中学までずっと」
「聖さまが大喜びしていたわ、手紙に嬉々として書かれていたもの」
「そうなんですか、お姉さまが…相変わらず祐巳さんがお気に入りみたいですから」
「ふふっ、楽しそうで良いわね」
なんて
会話を繰り広げられている
要するに祐巳ちゃんと志摩子の友達というよりは
聖の友達と言った方がしっくり来るのかもしれない
2人は単に敬っている先輩であるように見える
「ちゃんの馬鹿!!」
「はいはい…」
「ほら、やっぱり馬鹿にしている!」
「馬鹿って言ってるのは祐巳ちゃんの方じゃん」
「直ぐそうやって揚げ足を取る!!」
「あ〜……」
何と言っても今の祐巳ちゃんには無効らしい
だからとりあえず運ばれてきたコーラに意識がいった振りをして放っておく
「それで、"静さま"と聖の関係は何なんですか?」
「"静"でいいわよ。そうね、私が勝手に聖さまへと想いを募らせていた関係かしら」
「静、さん。所謂…聖への片想い?」
私の其の言葉に祐巳ちゃんと志摩子がぎょっとしたように私を見てきた
けれどさほど静さんは気にしていないらしく微笑みながら頷く
「ええ、そうよ」
「ふぅん…伊音のお母さんといい静といい、聖の周りにはいろんな女性が居るなぁ」
「伊音ちゃんのお母さん?」
「うん、クボシオリさんって人」
「っ…」
此の人もだった
其の名を聞くと息を呑んで祐巳ちゃんと志摩子へと顔を向けた
2人とも微妙な顔をして静さんに向けて首を横に振る
要するに其の話題に突っ込まないで欲しいと訴えて居る訳だ
其れをきちんと受け取った静さんは名の通り静かに微笑んで只頷いた
「そう、聖さまはおモテになるからね…」
私はコーラを啜りながら其の言葉を聞いた
3人はそれ以上何も言う事なく
白々しく話題を変えた祐巳ちゃんへと静も志摩子も意識を向けた
口の中で弾ける炭酸が
舌を刺激して程良い感触を与えてくれる―――――――――
next...