気がついたら、床で寝ていたみたいだ


成長期である体の節々が悲鳴を上げている

私はのろのろと立ち上がり背伸びをすると、
壁に掛けてある時計をみやる

短い針はまだ5時を差していた


泣きはしなかった


けれどどうしようもない怒りに身を任せたせいで喉がカラカラだ

そっと物音を立てないようにドアを開けると、
恐る恐るリビングへと向かう

無駄に長くて広い廊下はベランダから差し込む朝日だけが照らしていて薄暗い


リビングも其れは同じだった
朝独特の薄暗い、冷たい空気が身体を冒す

夏でも陽が完全に昇りきっていない内はまだ肌寒い



寝ぼけ眼の目を擦りながらキッチンに踏み入るとコップに水を入れ、一気に煽る

一息吐きながらコップを流しに戻すと辺りを見回す
キッチンの前にぽっかりと開いている出窓から見えるリビングの様子

広い空間に置かれているソファの上には聖が毛布に包まって寝ていた


まさかと思いつつキッチンからリビングに出ると
床に布団が2組あって、其処には蓉子と江利子が寝ていた

そして聖とは垂直になって置かれている1人用のソファには累さんが座ったまま寝ている


令と祥子はリビングから繋がっている寝室で寝ているらしい





そういえば初めて見るかもしれない

蓉子の寝顔
傍らにしゃがみこんで其れを覗くと綺麗な顔ですやすやと寝息を立てていた


頬に掛かる真っ黒な髪をそっと指で払いのけてやると、
少し身動ぎしてまた深い眠りに入った


どうやら昨晩は皆遅くまで起きていたらしい

一向に起きる気配もない



向かいに寝ている江利子の顔も見て、少しだけ微笑む

普段どんなに偉そうにすまして居たって寝顔は無防備なものだ




ふと、声がして振り向くと

椅子で寝ていたせいで眠りが浅かったらしい累さんが起きようとしていた


慌てて立ち上がり、其の様子を見守ると
累は寝起きが悪いらしくしばらくぼーっとしていて

幾分か過ぎた頃やっと覚醒したらしい累はさんに気づいて声を掛けてくる









「あ、…やぁ。おはよう」

「うん」

「あぁっ、眠い…」

「其処じゃ良く寝れなかったでしょ?」

「まぁね」





ふやけた様に笑いながら累さんは背伸びして立ち上がる

そして机の上にあった自分の煙草を手にして、
私の前を通り過ぎるとベランダに出て行く

なんとなく私も其の後を追って一緒にベランダに出た


まだ明かりも点いていない街の彼方から太陽が顔を覗かせていた

隣で手すりに凭れて煙草に火を点ける累さんを見ていると、
彼女は私の視線に気づき、顔を上げて煙草の箱を差し出してきた





「吸う?」

「……うん」





前は、伊音を想って吸わなかった
けれど今は彼女は居ないし

病み付きになってしまわなければいいんだから、と


私は其の手を伸ばして受け取った

蓉子に気づかれないといいんだけど
ちらりと窓越しにリビングの中を覗くとまだ起きる気配は感じられない


煙草を受け取るのと入れ違いにライターを渡してくれる累さんに、礼を言い其れも受け取る




吸ってみて判る、煙草のキツさ

こんなにキツいのを吸っているなら祥子と令に文句を言われるのも当然だろうと思った

聖も此れに劣らずキツい煙草を吸っているけれど、
蓉子がどんなに言っても止めないせいで子供であるにも煙が馴染んでしまった







「美味い?」

「わかんない」

「ははっ」





其れだけのやり取りをして、
累さんは再び下に聳える街中を見下ろして黙り込む

私も其れに習って煙草を吸いながら街を見下ろす







「ちっぽけな世界だ」

「…うん、でも世界は広い」





吐き出された煙が朝の風に揺らいで掻き消えていく

其の中で私が何気なく言うと、累さんがそう呟いた
そして咥え煙草のまま私の方を振り向いて微笑んでから







「世界は広かったよ、










そう言ったんだ


世界は広い

其の言葉を言えるのは世界中を直に目に焼き付けてきた者だけ



累さんは、どんな半生を送ってきたのだろう

私は、何も知らない




昨夜の聖の事だってそうだ


蓉子と付き合ったのが初めてじゃない

栞さんと付き合っていて

祐巳ちゃんとも付き合っていた


なんて、

直ぐに受け入れるには私は子供過ぎた








「私の全て、教えようか?そんなに気になるなら」

「え…?」




いつの間にかひじ杖を突いて此方を覗き込んでいた累さんと目が合う

彼女は微笑んでもいない
只真っ直ぐな目で私を見据えていた






「自慢出来る事じゃないけれど、私は決して綺麗な生き方をしてきた訳じゃないよ」

「そう、なんだ」

「私が話す事で、人間は皆いろんな過去を抱えていると判ってくれるなら話すよ」

「……うん…話して、累さん」

「…判った」







そして累さんは、床に座り、指の間に挟んだ煙草の灰を落とす

私も累さんの隣に腰を下ろした



ぽそり、とそんな感じで話し始めた


















「私の耳が聞こえなくなったのは、小さい頃に令と剣道の試合をした時の事だったんだ…。




もちろん事故で、令が故意に耳を狙った訳じゃない。

でも其れから私の世界は音を失った。
絶望のどん底で私の心は荒んでいった、世界の全てに対してね。

周りは誤解していたみたいだけれど、決して令だけに憎みを持った訳じゃない。

むしろ逆だ、令は大事で全然其れまでと変わらなかった。




けれど令…が片思いしてる事に気づいたんだよね、高2の時。






もちろん祥子だよ、相手は。


其れで令の想いを叶えてあげたいと思って、
世間知らずな私は祥子と付き合った。



ん?

何のためって?


だからさ、祥子を私に取られたら幾ら温厚な令でも行動に移さない訳にはいかないじゃん?





で、祥子と付き合う…のと同時に江利子さんとも付き合った。





ん?


其れこそ何でだって?





だからさ、…………あれ、何でだろう?










でももしかしたら単純にもう好きだったのかもしれないや、江利子さんが。



其れで令は怒ったと思うだろ?

でも怒らなかった、只呆けていて…自分の妹が此処まで不甲斐ないとは思わなかった。




そして私は事故にあって…皆から心配して貰って

其処で初めて自分の間違いに気づいたんだ、こんなやり方じゃ令は気づかないって。


まぁ結局行動に起こしたのは祥子の方だったから意味なかったんだけどさ。





で、どんどん江利子さんの存在が私の中で大きくなってって…掛け替えのない人になった。

感情を表すのでさえ億劫になった私を、辛抱強く江利子さんは面倒見てくれて。
ほんの少しの間だけだったけどリリアンにも転入した。


あのまま暮らしていけば…きっと私は幸せになれていたかもしれない。

温ま水に浸かって幸せに……。




けれどもう後戻り出来ない場所に居たんだ、既に。



自分の手に余る幸せに手が届きそうで、怖くなった…。

私の性分でね、放浪癖なんだよ。
其れは君も知っているでしょ?


一箇所に長く留まらない。

留まれない。




だから旅に出た、誰にも何も言わずに。

7年かな。
世界中のいろんな所をぶらぶらしたよ。

其の時間は短くて……とても長かった。


今なら判るんだ、其の理由が。

江利子さんが居なかったからだよ。


常に満たされない。

常に孤独で。




そんな頃静に出会った。

そして、決めたんだ。
日本に帰ろうって。

江利子さんに会いに行こうって。

出来たら其処からもう1度やり直せたら、って…。




でもまた私は手遅れだったよ。


いつもこうなんだ、何かを手に入れるためにぐずぐずしていて…最後には手遅れになる。

此処だけが、令に似ているかもしれないや。


あ、でも。
令は手遅れになる前に気づける分私より全然良いかもしれないね。


7年もぐずぐずしていて帰国した時にはもう江利子さんは婚約していたよ。


江利子さんのお父さんに言われたんだ、
"やっと幸せになろうとしている江利子をまた乱さないでくれ"ってさ。


参っちゃうよね。


私って、
何処に行っても、
何をしていても、

周りを乱すだけの疫病神でさ…。





でも最後に1つだけ望む事を許してくれ、って思ってね。

江利子さんに会いに行った。




んだけど、


会えなかった。






また事故にあっちゃった。

其れも重体で。
瀕死で…。


1度心臓止まったらしいよ?


其れから…決めた。

私は死んだ事にしようって。



そうしたら、もう2度と令や江利子さん達に迷惑をかける事ないからさ。

旅に出ているだけだったら帰ってくる望みを持たせちゃうだろう?

だからもう2度と帰ってこないって決めた。
そうするには死しかないじゃない?



其れから私は何年も何年も支倉累という存在を抹消させてきたよ。


江利子さんの事を影から見守ってて。

皆が困っている時はこっそり手助けしたりして。








そして私がこうして存在を抹消しなくても済むようになったのは、


、君のおかげだよ。




君のおかげで…私は江利子さんに向き合い直せたよ。











私はいつも思うんだ。



人生には辛い事も悲しい事も沢山ある。

山あれば谷あり、なんていうけど。


実際山なんてほとんどない。

嬉しい事の数倍もの苦しい事がある。



平等じゃないだろう?






でもさ。


苦しい事を沢山乗り越えた分、

楽しい事がどんな些細で小さくても、
其れが倍に感じられるってさ。


そう思わない?











人生…何事も楽しんじゃおう。


此れが支倉累の人生論。

















そんなとこかな?」

























既に何本目だろうか

数え切れない程吸っていた累さんの周りには吸殻の山があった
私の足元にも1つだけ吸殻がある

其れは随分前に火が消えたものだった


話し終えた累さんは其の吸殻を自分の吸殻の山に置いて、

長いため息を吐いた









「累さん、って」

「ん〜?」

「格好良いね」

「…ははっ」






ぼそりと呟いた私に顔を向けて、
累さんは首を傾げた

本当に何気なくそんな事を言ってしまった私に、累さんは少し呆気に取られてから

直ぐに笑い出した


其の乾いた笑いでさえも格好良いと思ってしまう


累さんの生き様が格好良いのか、

累さん自身の纏っている空気が格好良いのか



きっと両方なんだろうな






そしてリビングの方から人の気配がしだしたのを見て、


累さんは立ち上がりながら言った













「聖さんに対してもそういう風に思えるようになったら最高じゃない?」
















リビングの中へと舞い戻っていく累さんの背中を見送りながら


私はもう少しだけ其の場で朝の風を身に受けていた―――――――――





























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