目に映る世界がモノクロになった時
其処に一滴の鮮やかな絵の具を垂らしてくれたのは貴女だった――――――
「ご機嫌だね、蓉子」
祥子に妹が出来て、
親友も随分とホッとしているようだった
テーブルに肘杖を突きながら蓉子の顔を覗き見ると、心外そうな顔をされる
でもやっぱり隠し切れなくて直ぐに頬が緩んだ
そんな蓉子に小さく笑い返しながら読みかけだった洋書に目を戻す
「誤魔化さなくたっていいじゃん、めでたい事でしょ」
「貴女だって嬉しいんでしょう?お気に入りの祐巳ちゃんが仲間に加わってくれて」
「まぁねぇ」
「何はともあれ、此れで一安心だわ」
「…うん」
視界の端に写る嬉しそうな顔の蓉子
やっぱり私と出会った頃とは全然変わらないくらいお人好しだと思う
でも其のお陰で私は何度も蓉子に救われてきたし、
今こうしてこの場で笑う事が出来ているのは蓉子達のお陰だと思っている
2人きりの放課後の薔薇の館
学園祭も終わった今、秋の風が窓を叩いてる
静かに吹き荒れる風の音に耳を傾けて、
目は英文をつらつらと追う
「此れで安心して卒業…出来るかしら」
「……そうだね」
「早いものね」
「…うん」
本から目を上げて、
蓉子に次いでため息を漏らすと
座ったまま背伸びをして肩を鳴らす
其のまま上にあった腕を頭の後ろで組んだ
此の侭何事もなく平和に私達はこのリリアン高等部を去っていくのだと、そう思っていた
少なくともこの瞬間は―――――
蓉子に一声かけてから読み終えた本を図書室へと返しに薔薇の館を出た
秋風が髪をそよがせていく中
図書室まで向かう途中では何人かの生徒達に声を掛けられる
何となく、秋は憂い気持ちにさせる
其れが何故なのかは直ぐに検討が付いた
図書室、其れは彼女との思い出の場所
そう
栞とも
蓉子とも意識して付き合い始めるずっとずっと前の事
彼女との思い出の場所
2人のデートの待ち合わせ場所はどちらともなく自然に此処になっていたし、
デートといっても何処かに行く訳でもなく只2人で隣どおしの席に座り本を読んでいただけ
只其れだけ
自分の指定席になっていた椅子の背もたれにそっと触れるとあの頃の事が昨日の事のように鮮明に思い出される
広い図書室の片隅
窓側の席で私は本を読む彼女の隣で寝ている事が多く
今思えば初めて人に寝顔を晒したのかもしれない
直ぐ其処にあった窓を少しだけ開けてから、
其の昔の指定席に腰を下ろす
少しだけ肌寒い風が頬を撫ぜていった
何時の間にか私は其処で随分と眠りこけていたようだった
両腕を机の上に組んで、其処に頭を押し付けて熟睡していたみたいで
気づいたら開いていた筈の窓は閉められていて
肩には誰の物かは判らないコートが掛けられていた
とっくに夕日へと変化していた太陽が誰も居ない図書室を紅く染めている
古い本の独特の匂いも協力してか、
其の景色は何だか幻想的だった
コートを手に取り、
裏地に縫い付けられている筈の名札を見ると
其処には小さな綺麗な字で
"1年桃組 福沢祐巳"
と書かれていた
「…祐巳ちゃん?」
名前を呟いてから辺りを見回してみても、
やっぱり図書室は無人だった
それどころか普段は居る筈の図書委員でさえ居ない
そして図書委員が居る場所の近くの壁に掛けられている時計を見て「うげ」と苦虫を噛み潰したような顔になる
「下校時間とっくに過ぎてるじゃん!」
慌てて祐巳ちゃんのコートを片手に、
借りていた洋書を本棚へと戻しに行く
すると洋書なんて読む生徒は少ないせいで普段は綺麗にびっしりと並べられている棚に1つだけ隙間が出来ていた
こんなの読むのは私ぐらいだろうに…
私の借りていた本と同じシリーズ物で
3巻と5巻の間が空いている
という事は4巻を借りていった物好きが居たという事だ
そういえば
いつも彼女はこのシリーズ物を飽きもせずに読んでいた
まだ中学生だったのに洋書を読めるという彼女に、
本を読める程度までは勉強していなくとも英語は得意分野になっていた私は吃驚したのを覚えている
聞いた所によると小さい頃2年くらいだけ英国で暮らしてたそうだ
だから簡単な文体だったら読める、と
そう言っていたのを最近ふと思い出して私は普段は寄り付かない図書室に通うようになった
「酷い事、しちゃったな…」
独り言は誰に聞かれる訳でもなく
只無人の図書室の静けさに圧し負けて消える―――――――
「はい、此れ」
「あ…」
朝、登校するなり其の足で祐巳ちゃんの教室を覗いた
昼寝をしてしまったせいで夜はなかなか寝付けず、
結局朝方まで新しく借りた本を読んでて寝不足気味な私とは正反対に
健康的な笑顔で駆け寄ってきた祐巳ちゃんに昨日のコートを差し出す
すると一瞬吃驚してから直ぐに微笑んで其れを受け取った
「有難う、今朝寒かったでしょ?コート無しじゃ」
「いえ!今日は暖かいですし」
「昨日図書室来てたの?なら起こしてくれれば良かったのに」
「あ、えっと最初は私はそうしようとしたんですけど」
「ん?」
たった今渡されたコートを抱きしめながら祐巳ちゃんは申し訳なさそうに顔を歪めてから、
私の顔を真っ直ぐに見上げて続きを話してくれる
「一緒に居た私の友達が此の侭にしておきましょう、っておっしゃったんですよ」
「どうして?」
「白薔薇様、とても気持ち良さそうに寝ていたから」
「…ふふっ、そうなんだ。じゃあ其の子紹介してよ。お礼言わないと」
「え、でも…」
「気持ち良く寝かせて貰えたお礼、ね?」
何故か戸惑う彼女にウインクしながら言うと、
祐巳ちゃんは弱々しく微笑みながら教室内を見回す
そんな彼女にフォローの言葉を投げかけるけれど、
祐巳ちゃんはそんな事を気にしていた訳じゃなかったらしい
「心配しなくても別に口説いたりしないよ」
「いえっ、そうじゃなくて…さっき黄薔薇様に呼ばれて行っちゃったんです」
「江利子に?」
「ええ…聖さまと入れ違いに」
「……そう」
どうして其処で江利子が出てくるんだろう?
祐巳ちゃんと志摩子でもなく
由乃ちゃんでもなく
どうして只の1年生を連れ出したりするのだろうか
そんな疑問を抱えたまま私は祐巳ちゃんに再度お礼を述べ、
教室を後にした――――――
同じ頃、黄薔薇様こと鳥居江利子は廊下を歩いていた
朝のHRが始まる時間まで裕に20分はある
其れだけあれば十分だと思った
彼女を問い詰める時間は、其れで十分だと
登校してくる生徒達に声を掛けられ、
表面上笑顔で受け答えしていても
全身の神経は後ろに居る人物へと向けられている
屋上へと続く階段の踊り場
此処まで来れば周りに会話を聞かれる事もないだろう、と
江利子は振り返って其の生徒を見た
「まずは、久しぶりね…という所かしら?」
「…ええ、お久しぶりです。黄薔薇様」
「昔みたいに"江利子"でいいわよ」
「でも上級生ですから」
余所余所しい態度に少し膨れっ面になり、訂正を求めるが
彼女は其れを正す事もなく微笑みながら首を横に振る
そんな彼女に江利子はやれやれとため息を吐き、額に手をやった
「まさか、下級生に混じってるとは思わなかったわ。貴女は本当は…」
「其れは言わない約束、ですよ」
口元に人差し指をやり、
何処か妖しげな笑みを浮かべる彼女に江利子は珍しくも口篭ってしまう
そして少ししてフッと笑いながら彼女への目つきを柔らかい物に変える
「でも再び会えて良かったわ、貴女とはもう2度と会えないと思っていたもの」
「本当は貴女方が卒業なさるまで息を潜めてひっそりと過ごしていこうと思っていました」
「クラスメートの祐巳ちゃんが山百合会に入るという事は盲点だった、と?」
「その通りです、まさかこんな事になるとは思いもしませんでしたね」
「私は物凄く喜ばしいのだけど?」
「……ええ、私も祐巳さんが憧れの祥子さまにお近づきになれて良かったと思っています」
「祥子、"さま"ねぇ」
「祥子、"さま"です」
「ねぇ」
少し複雑そうな顔つきで少女の放った言葉を繰り返す江利子に、
少女は有無を言わさぬ喋り方で頷く
そして、江利子は彼女の腕を引いて腕の中に閉じ込めた
「判ってるわよね?」
「…何をですか?」
「私はあの頃と少しも気持ちは変わってないわよ」
「仰ってる意味が良く判りませんが」
「惚けるのも此処までよ、私は貴女にずっと恋焦がれてきてたわ」
「……でも、其れに私が応えてしまうと取り返しのつかない事になるのは判ってるわよね?江利子」
ふと口調が変わった彼女に、
江利子は満足そうに微笑み身体を少し離して彼女の顔を覗き込んだ
「やっと呼んでくれた、私の名前」
「…迂闊だったわ」
「好きよ、ずっと貴女が大好きだったわ。もう何処にも行かないって約束してくれる?」
「………」
何も言わない彼女の唇を自分の唇で塞ぐ
やっと手に入ったモノ
其れを慈しむように江利子は優しい口付けを送った
目を見開いていた彼女も次第にゆっくりと目を閉じていく
「江利子、ひとつだけ約束して欲しいの」
「聖には、言わないわよ」
「…有難う」
朝のリリアン女学園の片隅で行われた秘密の約束事
其れを知る者はこの場の2人だけ、だった―――――――
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