「ただいま……」
深夜、と言ってもほとんど朝方に近い時刻
出来るだけ音を立てないように家の中に入ると
彼女が愛用している香水の匂いが香って少し安心する
バイク用に買った使い古されているブーツを片足でバランスを取りながら何とか両足分引っこ抜いて、
玄関に放り投げると小さな音を立ててそこに落ちた
もう寝ているよね…
リビングへと向かう途中にある寝室を覗くと
そこには案の定、ドア側から背を向けて薄着で寝ている江利子が目に入った
久しぶりのその光景に少し嬉しく思えて、
そっとドアを閉める
リビングへ行くと鞄をソファの上に投げ
ジャンバーも脱ぎ捨て
靴下も適当に脱ぎっぱなしにする
歩く経路に何かしら物が落ちているのを見て、
相変わらずズボラだなぁと我ながら感心
いや、感心してる場合じゃないか
よくよく見ればソファの上には私物以外にも江利子の服や鞄が散らかっていた
時々遊びに来る蓉子と聖に怒られるし
江利子と2人でお互いにぶちぶち文句を言いながら部屋を片付けるのは日常茶判事
大学生の江利子と、
一歩先に社会人となって世界中を駆け回っている私じゃ
時間が合わないのはいつもの事で
今日だって約5日振りぐらいにこの部屋に帰り着いた次第だ
キッチンで珈琲を淹れて、そのマグカップを手にしながらソファへと座り込む
先程投げ捨ててあった鞄の中から仕事用のカメラを取り出してから、
一口珈琲を飲んでサイドテーブルの上に置いた
鞄の中から今度はポーチを取り出す
カメラのレンズを外して小さな埃や汚れを丁寧に拭き取りながら、
ちらりと時計に目をやる
午前5時
もう少しで陽は昇り、
この静かな部屋にも明かりを運んでくれるだろう
手にしていた物達を丁重に机の上に置いてポケットから煙草を取り出した
ZIPPOで火を付けると、オイルの匂いが僅かに香る
ソファに身体全体を埋めてから、
ポケットに違和感を感じてまた手を突っ込んでみる
もう1つ出てきた違う種類の煙草を机の上に置く
私が普段愛用しているものはとても強いから、
煙も半端なくて喫煙者にも渋い顔をされるのだ
ましてや喫煙をしていない者には相当キツいだろうと配慮してそれよりも半分くらい弱めのを普段から持っている
後少ししたら、私は眠りについて
江利子は起きて大学へ向かう
こうしたすれ違い生活が何時まで続くのかと考えるととても気の遠くなる悩みの種だったけど
私の仕事を江利子も皆凄いと言ってくれるし、
私自信誇りを持ってしている事だから
この生活は変わることはないのだろう
日本という小さな島国から遥か遠い国で起こっている戦争の真中、
平和や幸せという物をこの平和な島国の人々よりも小さな日常で感じ取っている小さな少女
食料があって当たり前の此処とは違って
飴玉1個貰っただけととてつもなく嬉しそうな顔をする少女
お金があって当たり前の此処とは違って
日本で言えば僅か10円の金額でとても嬉しそうな顔をする少年
親や家族がいるのが当たり前の此処とは違って
たった1人で夜の寒さに耐え凌いでいる子供達
生きていて当たり前の此処とは違って
再び目を開けられた事を朝日を見る事が出来た事を心から安心する子供達
ここまで現実を目の前に突きつけられると
涙とは違った、悲しさとは違った感情が押し寄せて来る
改めて私はとても果報者だと思う
家族や親は居ないけど、
寂しい時や悲しい時には何時だって側に居てくれる仲間達が居る
自分は十分幸せなのだと少しでも誰かに思って欲しくて、
戦場を駆け回るカメラマンを始めて早くも1年が経つ
最初は戦争の真っ只中の場所に行く私の身を案じてかなりの人々に反対されたけれど
私の只1人の恋人が皆を説得してくれたお陰でこうしてしたい事をさせて貰っている
「お帰りなさい、」
肩に重みを感じて、咥え煙草だったソレを口から外して首だけで後ろを振り返ると
まだ寝ぼけているのか目が覚めていないのか眠そうな江利子の顔があった
ニッコリと微笑んでいるその顔に、
数日前と何も変わらないその顔に、
少なからずとも安心して後頭部に手を置いて自分の方に引き寄せる
「ただいま、江利子」
それだけ言うと、その唇に口付けを落とした
ただ重ねるだけの行為がとても長い時間のように感じられる
永遠に続くと良いのにとまで思ってしまう程の幸せな時間
それを噛み締めるようにゆっくりとお互いの顔が離れた
「何時帰って来たの?」
「さっきだよ、起こしちゃった?ごめん」
「何時も大体この時間には起きているもの、平気よ」
「そ」
江利子は背後から回り込んで私の隣に座り込む
ふと、その格好がYシャツと下着だけな事に気付いて眉を顰めた
「またレポートとかやりながら寝たの?」
「今日までだったのよ、着替える時間も惜しくてそのまま寝たの」
Yシャツの裾から覗く下半身にドキドキしながらなるべく見ないように目を逸らす
「ま、風邪さえひかなければいいけど…その格好もう少し気にしようよ。一応ピチピチの若者なんだしさ」
彼女は
出来るだけ見ないように、と焦っている私に気付いたのか
してやったりと、悪戯が成功した子どものような笑みを浮かべて肘杖をついた
「あら、今更じゃない。恥ずかしいの?」
「…っ、目のやり場に困るんですけどね」
「本当に今更。何度もお互いの裸なんて見てるでしょうに」
…言ったな
江利子を睨み返すと、
またしても楽しそうな顔と目が合った
5日間もご無沙汰だったんだし
江利子もそれを判っているはずだけど
まぁ、そっちがそんな事を言いだしたんだからどうなっても知らないからな
責任持たないからな
いくら仕事帰りで疲れているとはいえ、それとこれは別なんだぞ?
……何か聖みたいになっているな、私
これは考えもんだ
「なるほど、じゃあこれ以上剥かれても問題は無いという訳だ」
「え?…ちょっ」
意義を唱えようとした江利子の肩を掴んでソファの上に押し付ける
寝起きの彼女の髪はいつもようにセットされておらず
Yシャツから肌蹴て少し見える鎖骨にもゴクリと唾を飲む
「しても良いんだよね?」
「…私これから大学なんだけど」
至極冷静にため息をつく彼女に、笑い返した
その額に優しく口付けて再び顔を覗き込む
「1日ぐらい休んだって誰も文句言わないよ」
恋人達の方程式を1個編み出したよ、と囁いた
離れている時が長ければ長い程
相手を求める気持ちが大きくなる
……数学好きじゃないんだけどなぁ
それだけ言うと、首に両腕を回されて心底可笑しそうに笑われた
素敵じゃない、その方程式
と
fin