「ただいま」











鍵が開いていたから、中に居るのだと判って
今日1日貴方のことを考えていたのだと思うと




少し癪に障る











リビングへと向かうと恋人は
ソファに身体を沈ませて煙草を吸いながら本を読んでいた




ちらりと私を見ると、ただ一言








「お帰り」









それだけ言うと再び本に意識を戻してしまう


どうしてこんなに冷静なのだろう、彼女は

そう考えずにはいられなくて





鞄をの隣に置くとキッチンへ行って紅茶を淹れる


















「…ねぇ、






「んぁ?」











キッチンから見えるはやっぱり本から目を離しておらず

ただ適当に答えておく、という雰囲気で読書に耽っていた















「気にならないの?」





「………何が?」
















「私が朝から何処に行ってたのか」












私が出かけるとき、はまだ寝ていた


出かける寸前に起こして声をかけたけれど
は『あっそ』とだけ言ってまた寝てしまった












もう少し何処に行ってたのか、とか

何時に帰って来るのか、とか











いろいろ詮索して欲しいと思うのも




恋人としての複雑な心境なのは否定出来ない









けれどこの子ときたら…





















「別に」



















だものね――





想像は出来ていたけれどやはりいざと目の辺りにするとため息が漏れる







この苛つきは何かをしないと収まらなさそうで


紅茶を手に、キッチンを出るついでに蛇口にあった濡れタオルを取った







そしての背後に立つとそれを背中に落とす














「冷たっ!!」








案の定飛び跳ねてそれを慌てて服の中から取り出そうとする有様を見て

少し気も晴れた



…陰険だと思うかもしれないけど、鳥居江利子だもの







もぞもぞと動いているその隣に腰掛けると我知らん顔をして紅茶を飲む


やっと取り出せたタオルを机の上に叩きつけて、
怒るにソファが揺れた









「何すんだよ、いきなり」



「…何もしてないわ」



「ほうほう、じゃあこのタオルは天井から落ちて来たのかね」



「みたいね」







「んな訳あるか!!何不貞腐れてんだっての」











は騒いでいた間に床に落ちた本を拾い上げて憤慨そうにため息をつく

しばらく経って私が何も言う様子が見られないと判ったら、
諦めたらしくまた本を開いて目を落とした




それがまた苛だしくて、今読んでいるページを捲ってやる







「…………」







何も言わずに元のページに戻すから


今度は数枚捲ってやった






「…………」







またしても何も言わずに、
ペラペラと捲って元のページを探す



…本格的に無視するみたいね




だからこちらも本格的にやってやろう、と





本の裏表紙に指をかけて、本自体を完全に閉じると

やっとその目が再びこちらに向けられた












「……何?」




「何でもないわ」





「何でも無いのにちょっかい出す程子どもじゃないでしょ、聖じゃあるまいし」










何でそこで聖が出てくるのよ



在校時代から10年来の親友というくらいのノリで2人は仲良かったから仕方ないかもしれないけれど


本来10年来の親友なのは私と聖なんだけどね


…親友というよりも悪友だけど















「別に、そこまで恋人に対して興味無しで貫けるものなのかしらと思ってね」





「ふぅん…そういう事か。じゃあ何に興味を持って欲しい訳?」





「例えば何処に行ってたのか、とか何時に帰ってくるのか、とか…誰と出かけるのか、とか」




























「………じゃあ、聞くけど…まだ山辺と結婚するつもり?」
















吃驚した


あれだけ私に興味が無い素振りを見せていたのに

出かけた相手を知っていた事に驚いた






そこまで判っていて何故冷静で居られるのか



















………そう、判ったわ





























「ええ、もちろん」





















































「そ、じゃあ結婚式は呼んでよ。聖と蓉子とてんとう虫のサンバ歌ってあげる」





























…ごめんなさい、ここは深刻な場面なのに







心底その光景が見たいと思うのは私だけかしら




聖はともかく…



聖と蓉子との組み合わせでその歌が、ひどくそそられるのよね



















「あ、ウケてるウケてる」








隣でが私を指してニヤニヤ笑っていた













「うん、志摩子と乃梨子と私の無表情3組で歌うのも悪くないんじゃない」






















…なんでそんな能天気なの、この子



私、今結婚するって言ったのよ?

貴方じゃない別の人と






どうしてそんなに

























「ねぇ、。私の事好きじゃないの?」



















お腹を抱えてケラケラ笑っていたの顔つきが真剣になって、


私をじっと見つめてくる





私もその瞳を見つめ返すと


ふと、目がまた逸らされた















「好きだよ」






「なら、どうしてそんな冷静で居られるの」



























「好きだけど江利子の人生を縛る権利は無いからね、私には」






















紅茶をテーブルに置くと


水面が揺れて



私の心もかき乱された




















「縛ってよ!貴方…私の恋人なんでしょう!?ならもっと…っ……」














呆気に取られているが見上げてる間も

私は勢いよく立ち上がって寝室へと駆け込んだ















どうして、



どうしてこんなに苦しいの














お互いの性格からして、


縛られるのは嫌いという所が共通なのに…







だから惹かれたのかもしれないのに










今、








今私はこんなにも















貴方に想われたがっている
























あの親友達や

私の妹が




聞いたらとても驚くでしょうね












こんなにも不甲斐なくなってしまった私に






















足元から力が抜けて、床にへたり込む

ドアの正面なのに


ベッドはまだ向こうにあるのに…














「ふっ……っく……」






知らず知らずのうちに涙が零れ落ちてくる


いつから私はこんなに弱くなったのだろうか








山辺さんにフラれた時だって別に悲しくなんて無かった











けれど、










の一挙一句が










私の心をこんなにも乱れさせる



























「江利子」







「っ…入って来ないで……」













扉の向こうから聞こえた声


こんな姿を見られたくなくて、拒否してしまう







扉1枚隔てた向こう側でが戸惑っているのが目の裏に浮かぶ


















「泣いてるの?江利子」







「……放っておいて」










「傷つけた?それならごめん」
















「理由も良く判らないのにその場凌ぎの謝罪の言葉なんて要らないわ」





















「…ごめん」






















こんなにも近く居るのに




こんなにも遠くに感じるのは…











板1枚を挟んでいるから?









…違うわね












私達の互いに向ける想いが


あと僅かの所で大きくすれ違っているから








お互いが、


お互いの想いを受け止めきれないんだわ




















「江利子、とにかくここ開けてよ」








「嫌よ、今貴方の顔を見たく無いもの」







「………………そっか」


















あぁ


また私は思っても無い事を言うのね











聖みたいに純粋でも


蓉子みたいに素直でも






無いから











私はいつも思いとは裏腹な言葉をぶつけてしまう














そして、










傷つけてしまうのね



貴方を























しばらくしての言葉が無いのに気付いた時、


のろのろと立ち上がりそっとドアを開けた






丁度その時玄関の扉が閉まる音が聞こえる















「………?」









貴方を呼ぶ声は、


静かな廊下に響いただけだった




























静寂が支配する中で




彼女は此処には居ないことが判った































硝子よりも



枯れ木よりも







脆いあの子の心は








ふとした拍子に

知らず知らずの間に










ヒビを作ってしまう














その瞬間をあの子は誰にも見せないから







とても精神が儚いのだと


















蓉子と話した事があった














『恐らくは…いえ、きっと聖よりも弱いかもしれないわね。あの子』



『聖よりも……?』



『ええ、だから常に見てなくちゃ。些細な変化を、信号を送っているかもしれないから』











ねぇ、蓉子


その信号を自分から拒否した時はどうすればいいの?









……どうしてよ






どうしてこんなにも息がし辛いの?







































何時間が経ったであろうか



誰も居ない家の中で、ソファに座ってただボーッとしていたら

ふと家の中に響き渡る着信メロディ





もしかしたらかもしれない、と手を伸ばすけれど




いつも携帯を持ち歩かないからきっと違う、と


手が伸びる速さがスローになってく







やっと到達したそれを開いて、画面を見ると


聖からだった













「…もしもし」



『江利子?あのさ今、居るんだけど…』



「そう」




『何かあった?』





「…無くは無いわね」





『ん〜…私こういう雰囲気苦手なんだけど……蓉子も居るんだ、替わるね』




「……」













『もしもし、江利子?何やってるのよ、貴方』





「何って…考え事してたわ」





がおかしいんだけど、何かあったの?』





「おかしいって…?」





『家に来るなりハサミで髪を切り始めたのよ』




「……え?」





『最初は気分転換でもしたいのかと思ったんだけど、様子がおかしいから聖と2人で止めているの』





「…………」






『とにかく聖の家に来なさい!』





「…判ったわ」














それだけ言うと切るなり、さっき脱いだばかりのコートを羽織る


そして家を出たけれど






聖の家に向かううちに段々足取りも重くなっていく








ぱらぱらと頬を刺激する物に空を見上げると


いつの間にかあんなに晴れ渡っていた空が分厚い雲に覆われていた






























「あの子が泣くと雨が降るのね…」


































ピンポーン






「は〜い、いらっしゃ…江利子!ずぶ濡れじゃない!」





ドアを開けるなり叫ぶ聖に苦笑が零れる

確かに髪から滴り落ちる水は生半可な量じゃない










「家を出た後に降り出したから…」




「そっか、とにかく入りな。シャワーでも浴びなよ」










そう言って自分の身体を寄せて
家の中への通路を作ってくれる聖に尋ねる










は?」




「ん?今蓉子の膝の上で寝てる…さっきまで凄かったんだよ」




「悪かったわね、2人共巻き込んで」




「そう思うなら早くを笑わせてあげて、それが1番のお礼だからさ」





「………そうね」
















聖の部屋へと行くと、


蓉子がベッドに寄りかかっていて




その膝の上でが静かな寝息を立てていた

















「…貴方達は本当に素直じゃないのね」







小さく微笑みながらそう言う蓉子に微笑で返す


2人の前にしゃがんで、の頬を突いた

けれど起きる気配は無く




その頬には涙の後が残っている



















「……貴方は、大丈夫?江利子」






「ええ、もう落ち着いたわ。迷惑かけてごめんなさい」






「いいわよ、全然。慣れているし…この子を1人で抱え込むのは誰にでも出来ないわ」





「…ふふっ、そうね。1人からの無限の愛を求めている訳じゃないから、ね。性質が悪いのよ」
















「友人として付き合っている間はいいけど、恋人となると大変だ」










バスタオルを抱えて、部屋に入ってきた聖の言葉に


可笑しさが込み上げてきた






手渡されたそのタオルで丁寧に髪を拭きながらふと机の上を見ると

ハサミと髪が1房置かれている



その色はどう見ても間違いようのない人物の物だった














「…本当切ったの?」




「最初のそれだけだよ。慌てて2人で止めに入ったんだ」













聖に向けていた目を蓉子にやると


彼女はの髪を梳いていた手を剥がした



手の平から現れた髪は、不揃いな部分があって

そこに存在していた物だと判断できる
















「…何で急にこんな事……」






「だからそれが判らなくて、江利子を呼んだんじゃない。心当たりは無いの?」





「……喧嘩したわ」





「ただの喧嘩じゃないでしょう?」






「あまりにもこの子が不謹慎過ぎて、拒絶したのよ」


















「どういう事?」
















一息置いてから、聖がそう訪ねて来た


私はタオルに顔半分を埋めて呟く

















「ヤキモチして欲しいのよ、私は」














「「…え?」」














やっぱり驚いた


まさか、江利子が?っていう目で見てくる







…そうよ、江利子が、よ























「この子余りにも無頓着すぎるんだもの、だから私だけが好きで仕方無いみたいじゃない?」






「はぁ…まぁ、それは……ね」












苦笑しながら微妙に肯定してくれた親友にも色々思う所があるのだろう


聖は歯切れの悪い喋り方をしながら蓉子をちらりと見た


















「でも、無頓着な訳じゃないと思うわ。何て言うか、どうすれば良いのか判らないんじゃないかしら?」









「どういう事?」
















床に座って、不思議そうに訪ねてくる聖に


蓉子は柔らかく微笑んで言う

















「縛り付けても駄目、でも放っておくのは嫌、そういう葛藤を繰り返しているのよ」





































何時だろう




いつもよりも感じが違うのは、

愛用している毛布じゃなくて普通の布団だからだろうか










ああ、そうか



ここは聖の家だった

たまたま蓉子も来てて…








あぁ……そうだった…




















江利子さんと喧嘩した




否、正確には私が泣かせたんだね











また傷つけてしまった













どうしよう……私はそんなつもりじゃないのに





いつもあの人を傷つけてしまう

















どうしよう…あの人の悲しい顔なんて見たくないのに…




























どうしよう


















あの人には、微笑んでいて欲しいのに…………























目の前の窓から見える満月がとても悲しく私を照らす


今だけは照らして欲しくなんか無いのに――――



























「…?起きたの?」











「っっ!?」


























その言葉に驚いて身体を反転させて後ろを振り返ると



何故か此処に居る筈も無い彼女が私を包み込むように抱きついて眠っていた







その目は薄く開かれて眠たそうに私を見ていたけれど…






柔らかく微笑んで私を覗き込んで来る


















「江利子っ…どうして此処に?」








「聖から連絡があって、来たのよ。…ごめん、傷つけてしまって」






















違う、違うよ




傷つけたのは私の方で…























「ごめんね?私の我侭で困らせてばかりで」








「ちょっ…違うってば!私が」













「ねぇ、



















呟くようにその口から零れる言葉は


本当に耳を澄まさないと聞き取れないくらい小さく



とても弱々しくて











江利子さんを照らす月明かりが

彼女の美しさをより一層美しく見せていて
















何だかとても哀しくなった
































「私の事…好き?」







































でも、私は






目の前に居る貴方が好きで好きでしょうがないんだ


















それでも貴方には



縛られている、鳥の姿は似合わないから









だから縛り付けないように



束縛してしまわないように、









気をつけているつもりなのに


それでもどうしても気付かないうちに貴方は1人で泣いているから











どうすれば良いのか判らないんだ…

























でもこれだけは言える




胸を張って堂々と言える










本当の気持ち



































「好きだよ、愛している。江利子が好きでしょうがないくらい好きで好きで死にそう」





































「私もよ、……もっと言って…」



























「愛しているよ、江利子」



























「っもっと…」











































今夜だけは










何処か弱々しい彼女を守ってあげなきゃいけない







いつも守って貰っているから



































今夜だけはお月様も見逃してくれるよね?




























私達の弱い心が溢れ出させる涙を――――――











































fin