「……入るね」













返答が得られぬまま聖はそっと足を踏み出した

ひたひたと地面に吸い付く靴が、嫌に耳に付くぐらい大きく感じる


通路を少しだけ行くと直ぐに寝室が現れて江利子は窓淵に腰を掛けたまま声も出さずに涙を零している















「……珍しいね。江利子があんな事言うのも、累があそこまで怒張するのも」

「…そうね、大人気なかったかしら。互いにいい年して」

「そんな事ないよ、私と蓉子だって未だに口論になる時あるもん」







江利子が涙が流れる頬を拭う事もせずに、
微笑しながらそう言うので聖は微笑み返して首を横に振る

そして部屋にあったティッシュ箱を取ると江利子に差し出す







「有難う。また皆を巻き込んでごめん」

「気にしないで、江利子と累は…多分もっとぶつかるべきなんだと思う」

「……どういう事?」

「離れている時間が長かった分、互いに遠慮がちになってるんだよ。無意識にさ」

「そんなつもりは無いわ」

「そうだね、でも2人を見てて判る。互いが互いを気遣い過ぎて深い所まで踏み込めずに居るよ」









だから、時々発せられる2人のオーラは普通の恋人同士とは何かが違うんだよ


そう告げると江利子はティッシュで涙を拭いながら、少し考え込む

そんな江利子の隣に、同じ窓淵に腰かけながら聖はため息を吐く










「江利子から、言ってみたら?私はこうして欲しい、って」

「特に無いわよ」

「……本当は『結婚しないで、ずっと私の側に居て』って言って欲しいんでしょ」

「…………」








聖が微笑むと、江利子は聖から目を逸らす
足元をジッと見つめながら黙り込んでしまった親友に、

聖は優しく背中を撫でてあげる









「累は…多分……否此れは私が言う事じゃないね。本人に聞きな、『貴方はどうしたいのか』」

「………でも大分怒らせてしまったわよ」

「大丈夫、令と祥子が行った。あの2人は累と唯一の同い年仲間だし、深い関係だから累の心境を理解して宥めておいてくれるよ」

「…判った。じゃあ夕食まで私と累は別行動って事にしておいて、貴方は皆と過ごしてて。私達は話し合いをするわ」

「了解。……江利子、頑張れ」

「了解」











最後に江利子の背中を軽く叩くと、

江利子の顔にも弱々しくとも笑みが現れた













































「……累、あんな言い方しなくてもいいじゃない」









双子の妹に投げかけられた声に

累は振り向かない


けれど無視された訳ではないと理解している令は、累の隣に座る


累は中庭にあった噴水の縁に座って水面を眺めていた
令の気配を感じて1度顔を上げたが、直ぐに戻す


そして令と対になるように累の隣に座る祥子にも、気付いたらしくちらりと目をやる










「累、こっち見て。話が出来ないよ」







読唇術を使用しないと話す事さえ出来ない姉に、
令は困り果てたように其の肩を叩く

けれど累は頑なに顔を上げない


水面に太陽が反射して、俯いている累の顔を照らす




令は累を挟んで反対側に居る恋人に視線を投げかけるが、

祥子も首を横に振り無駄だと告げる











ふと、令と祥子が目線を上げると
其処は先程まで累と江利子が言い争いをしていた部屋があった

その窓は開いていてカーテンが風に揺られているのが見える



其処から江利子と聖の背中が見えて、何を話しているかまでは聞き取れないけれど

江利子が涙を拭っている様子は見えた



きっと普通の人だったら声に気付いて相手の存在を認識するだろうが
累は耳が聞こえないため、気付いていないらしい



ふと令は江利子と目が合う

そして累に目を移して助けを求めるが、祥子と同じく江利子も首を横に振るだけだった













どれくらい時間が経っただろうか




少なくとも水面に反射していた光が黄色からオレンジに変わる程時間は経過した筈だ

累はピクリとも動かずに、


むしろ寝ているのではないかと思わせる程に動かなかった




風が祥子の長い髪を揺らす


累と江利子の部屋から怒鳴り声が聞こえた頃に読んでいた単行本をそのまま持ってきてしまっていたらしい祥子は、
その本を読み耽っていて、時々累の方に視線をやり気にかけるぐらいだった


令は累と同じくクルクルと変わる水面を飽きずに見ていた



窓からは江利子と聖の姿はとうに消え失せており、

きっと蓉子と聖の部屋に行ったのだろうと推測する



恐らく泣かせてしまったを宥めるために

























「江利子さんの、気持ちが判らない」











ふと声がして、令と祥子は隣に目を向ける

累は相変わらずの姿勢のままポツリと搾り出すように続ける












「ずっと、この9年間江利子さんに会いたかったんだ」

「…累……」

「そして抱き締めたかった、温もりを此の手に感じたかった」

「……うん…」

「けれど、知っていたんだ……あの人が9年前から変わらずに江利子さんに結婚を申し込んでいる事を」

「そうなの!?」











令の叫ぶ声に、吃驚したらしい累が顔を上げるが
妹の驚きの顔に苦笑を漏らすと水面に手を付けてその指先を濡らす


腕を動かすとその軌道に沿って水面が模様を変える










「うん、江利子さんは隠しているけど。私は、ずっと江利子さんを見てきたんだよ。知らない筈がないじゃない」

「…そう、な…んだ……」

「そして江利子さんが私に結婚するなと言って欲しがっているのも判ってる」

「……そっか……お姉さまは……」




「でも私には其れを言ってあげる事が出来ない」









そう言うと、累は立ち上がって濡れた手を振り水を切る


そしてきょとんと見上げている令と祥子に笑みを向けると、口を開く














「江利子さんが結婚を蹴って私と共に生きるのを反対しているんだ、江利子さんの家族は」


「そんなっ……」


「もちろん其れは仕方が無い。9年も、否16年間も恋人を放っておいて好き勝手生きてきた罰だし」


「累…」


「だから、私は江利子さんは結婚して落ち着いて欲しいと思う」


「っ……それじゃ、累は」


「私はもう何処にも逃げも隠れもしないよ。江利子さんの結婚式に参加して紙吹雪を浴びせてあげる」


「……そんな、累は…それじゃ…」











目を潤ませて口が上手く働いてくれない事に苛ついている令に、

 
累は唇の前に人差し指を持ってくる





そして、妖しい笑みを浮かべた















「『それじゃ、累は幸せじゃない』って言いたいんでしょ?」


「…うん」


「大丈夫、江利子さんが笑ってくれたら其れで私は満たされるからいいんだ。例えその笑みが私へと向けられている物ではなくても」








「随分と勝手ね、貴方は」













ふと、目を伏せた累に
其れまで黙っていた祥子が立ち上がり言葉を投げつける

その内容に吃驚したのは令だけじゃない、累もかなり驚いていた







ぱんっ








ふいに劈く音が中庭に響く
そして累は赤くなった自らの頬を押さえながら祥子を呆然と眺める
















「いい加減にしてくれないかしら、ずっと私だけを見ていて欲しいだなんて言ったり…今度は私を見ないでと切り捨てるだなんて」


「っ…祥子…?」


「大体貴方見ていると苛々するのよ。何?自分だけが可哀想な人間だとでも思ってる?」


「そんな…事は……」


「じゃあ江利子さまは?私は?令は?…ご家族の方々や山百合会の皆はどうなの?」


「……それは…」


「ずっと私達の心にしがみ付いて離れない、そして笑っている顔だけしか見せない。其れで誤魔化されるとでも?」


「…………」


「貴方は支倉 累でしょう!?支倉 令の姉の、そして1人の人間である支倉 累でしょう!」


「………」


「ならもっと堂々と生きなさいよ!江利子さまを抱き締めて『私の大切な人だ』って言い切りなさいよ!」


「…祥子」


「何故ずっと影でこそこそ生きるのよ?私達は貴方をずっと光の世界へ導きたかったの、其れだけよ」


「……うん…」


「今が、其の時でしょう。江利子さまはあれだけ貴方に自らを捧げてまで貴方を救おうとしている。愛している、そうでしょう?」


「……」











堰を切ったように言い切る祥子に、涙が零れる


そしてたった今しがた叩いた元恋人である累の胸に額を預けて泣き声を押さえようと口を塞ぐけれど
嗚咽を押し留める事は出来ずに肩を震わせるだけだった



そんな祥子の肩を優しく抱き締めてから、累は言葉を紡ぐ














「私は、江利子さんに言ってもいいの?」


「……っく…当たり前……じゃない」


「本当は、……本当は…ずっと側に居て欲しいって?」


「言いなさい」


「……そっか、良かったんだ…」

















ふと、累の瞳から涙が零れ落ちる





2人を見上げていた、令はふと2人越しにあの窓を見る

其処にはいつの間にかが居て、泣き腫らした顔をしていて
窓淵に両腕を交差させてその上に顎を置いて此方を見下ろしていた






























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