吃驚した










何故ならこの子は全くと言っていい程泣かなかったから





これくらいの年だと1日中泣き喚いている筈なのに全然泣かなかったのだ




















「…泣かないね〜、この子」

「何だかここまで大人しいと心配になるわね」











朝、2人が目覚めた時には既に赤ん坊は起きていて

無邪気に1人で遊んでいた




2人がやっと起きると嬉しそうに寝転がっている2人の身体によじ登ったり

2人の腕の中に収まるように潜り込んだり

毛布を引っ張ったりしている




立つ事はまだまだ出来ないらしいけど
頼りない動きで四肢を動かしてはハイハイしていた





けれど聖と蓉子は段々働き始めた思考で、ふと疑問を抱える

昨夜拾う前からずっとあの林に居たのだとすると、
ずっとご飯を食べていない事になる


正確にはまだミルクだけど





そろそろお腹を空かして泣くなりしてもおかしくないのに、

本当に全くそんな素振りさえ見せなかった















「とりあえず…ねぇ?ミルク作ってみる?」


「そうね、栄養価の高いものを食べさせないと」


「……となるとやっぱり頼りになるのは」













ベッドから降りて、聖は机の上にある携帯電話を手にする

未だにベッドの上に居る蓉子と赤ん坊は蓉子に遊んで貰っている


相手の着信音が鳴り響くのを受話器を通して聞きながらその様子を眺める





蓉子も昨夜突然の事に多少戸惑ってはいたものの今はもうそんな様子は微塵も見せない


赤ん坊の手を握って揺り動かしたり足の裏をくすぐったりして赤ん坊と一緒に微笑んでいる













(……はい、もしもし)




「あ、もしもし?朝早くからごめんね、寝てた?」











着信音が何回か鳴った所でやっと相手が出た

眠そうな声で応えてくる彼女に苦笑する










(あぁ、はい…昨日夜遅くまで起きてたもので)



「ふぅん、祥子とお盛んだったって訳だ」



(……もう、朝っぱらからからかう為に電話して来たんですか?切りますよ)



「ちょっ、待って令!ごめんごめん、あのさ今から家に来てくれない?」










寝起きのせいか、少し機嫌の悪い令を慌てて宥めて素早く正確に用件を伝えると

しばらく令の声がしなくなった


きっとあっちもまた突然の事に頭が働かなくて四苦八苦してるのだろう












(…どうかしたんですか?誰かが熱を出したとか?それならこの間お粥のレシピを置いて行きましたからそれを食べれば……)



「あ〜違う違う。うん、この間は助かったよ、蓉子が熱出しててんてこ舞いだったんだよね。でも今日は違うんだ」



(違うんですか?じゃあどうしたんですか?)



「ねぇ、令。赤ちゃんってどんなものをあげればいいのかな。出来るだけ栄養価の高いもので」



(……………)










あ、今度こそフリーズした

受話器の向こうで立ち尽くしている令が安易に想像出来て、可笑しかった














(……居るんですか?赤ちゃん)



「うん、居るの」



(…………とりあえず今から行きます。何歳くらいですか?)



「まだ1歳には満たしてないと思う」



(判りました、今日日曜日なんで祥子も居るから連れて行きますね)



「うん、宜しく〜」












電話を切ると、いつの間にか赤ん坊を片手で抱きかかえた蓉子がキッチンで朝の珈琲を器用に淹れていた

寝起きだった顔を洗面所で洗ってから、聖もキッチンへ向かい蓉子の腕から赤ん坊を抱き留める
そして蓉子にも朝の身だしなみをしてきていいよと促し、珈琲淹れの続きも受け継ぐ



雑な聖と違ってしっかりしてる蓉子は例え休みの日でもきちんと身だしなみをするから、時間がかかるのは重々承知の上だ




有難うと言って聖の頬に朝のキスをし、キッチンから姿を消す蓉子













「もうすぐ君にも美味しいミルク飲ませてあげられるから待っててね〜」


「んぎゃぁっ」


「君は大人しいねぇ、でもそんなにジッと見てても珈琲はまだ無理だと思うよ」


「んぎゅう……」


「ふふっ、そんなあからさまに落ち込まないでよ」










大人しく腕の中に抱かれながら聖の手元を見つめている赤ん坊に、聖は笑いかける

時折返事のように口から出る言葉を成さない言葉は、この家を賑やかにしてくれる















「聖〜」


















ふと洗面所から蓉子の声がして、聖は珈琲を淹れ終えたカップをキッチンに置き去りにしてその声の元へ向かう

顔だけ覘かせて蓉子を目で探すと、洗面所の奥にある風呂場に居た






湯船に薄くお湯を張って腕まくりをして赤ん坊を再び聖から受け取る


















「どうしたの?」



「その子お風呂に入れるわよ」



「えっ?何も朝から…」



「これから令達が来るんでしょ?だったら綺麗にしておかないと可哀想でしょう、その子も」



「ん〜、でも私赤ちゃんのお風呂の入れ方知らないよ」



「大丈夫よ、テレビで見た通りにやるから。聖は珈琲でも飲んで眠気を覚まして頂戴」



「いい、此処で見てる。何か手伝い出来ると思うし」










そう言うと、シャワーを取ってぬるま湯が出るようにノズルを調節する

丁度良い湯加減になると其れを蓉子に渡して、
柔らかいスポンジに石鹸を軽く馴染ませる









「あら、この子女の子なのね」


「へぇ、そうなの?その割には凛々しい顔つきだから男の子かと思っていた」


「そうね、私も思っていたわ。子どもは外見で性別を判断しにくいって本当」


「ふふっ」









その間に蓉子は赤ん坊の服を脱がしてお湯に浸かわせていた

手の平で優しくマッサージするように身体を擦っている蓉子に、泡の沢山ついたスポンジを差し出すと



テレビで見ただけで其処まで出来るものなのかと感心するくらい手際の良い手つきで片手で赤ん坊を抱いて
スポンジで優しく擦っていく様子を湯船の縁に顎を突いて眺める










「はい、綺麗にしましょうね」


「んぎゃ」


「よしよし、良い子ね〜。この子こんなに良い子なのにどうして捨てられたのかしらね」









嬉しそうに笑う赤ん坊から目を離さずにポツリと呟く蓉子に
聖はバスタオルを準備して答える










「きっと良い子だからとか悪い子だからとか関係ないと思うよ、単純に育てられなくなったとか…」


「動物もそうだけど、責任を持てないなら最初から生まなければ良いと思うわ」


「…蓉子怒ってるの?」










ふと蓉子の顔を見ると、何だか何とも形容し難い複雑な顔をしていた

苦笑しながらシャンプーの容器を使いやすいように湯船の縁に置くと蓉子は何も言わずに少量のシャンプーを手の平に取る



赤ん坊のまだ薄い髪の毛を撫でるように綺麗に洗いながら、ふと蓉子がまた続きを話し始める












「だって、子どもが欲しくても出来ない人達は沢山居るのに子どもが生める人達は平気な顔をして捨てたり殺したりするんだもの」


「……そんな案件でもあった?」














蓉子は仕事上罪人の刑を軽くする弁護をしたりもする

本人は嫌で嫌で仕方ないらしいけれど100%悪い罪人の弁護もしないといけないらしい



恋人の頭を軽く撫でてあげると、蓉子は赤ん坊の頭をシャワーで洗い流す












「赤ちゃんを虐待して殺した両親の弁護があったのよ、こないだ」


「だから最近何処と無く苛々してたんだ」


「そんなつもりは無いわ、仕事だもの…でも身勝手な大人の被害者である子どもを直に目の前にするとやり切れなくなるわね」


「うん、そうだね」













聖と蓉子の会話なんて判らなく、

赤ん坊はただ身体中が綺麗になっていくにつれ更に嬉しそうに声をあげて喜んでいた








全て流し終えた赤ん坊を聖がバスタオルを広げて待ち構える

その中に包んであげると、優しく叩くようにタオルに湯を吸い込ませながらリビングへ向かう


後ろから蓉子もついて来て、もう1枚のタオルで自分の濡れた腕を拭いている


















ピンポーン
























「あ、来た来た。すぐ近所の割には遅かったなぁ」


「私が出るわ」










チャイムが鳴って聖は赤ん坊を抱えたまま玄関に向かおうとするが、
蓉子が聖の肩に手をやって静止し自分が向かう



ソファに座って赤ん坊の髪を拭きながら聖はふと着替えが無い事に気づく

もちろん自分のではなく腕の中の彼女のだ



つい先ほど脱がせた泥だらけの服を再び着せる訳にはいかず


何か着せれるものはないかと無駄と判りながらも部屋内を見回す















「聖、令と祥子来たわよ」



「あ、ねぇ蓉子。この子の服…」



「ごきげんよう、聖さま。…これとりあえず出産祝いです」












リビングに入って来た蓉子に助けを求め、口を開くとそれと同時に目の前に紙袋が掲げられる

何だか令も祥子も落ち着きなさそうに聖の腕の中の赤ん坊を見ていた


緊迫した状態で半ば押されるような形で聖はその紙袋を受け取る









「あ、ありがとう……おぉっ、気が利くじゃない!」










苦笑いしながら中身をちらりと覘くと、何とたった今求めていたベビー服が入っている

今のおかしな言動など気にせずに聖はその中から急いで服を取り出して赤ん坊に着せ始める












「とりあえず2人とも掛けて。今珈琲淹れるから」


「あ、いえ。お構いなく」


「私が、やりますわ。お姉さま…疲れていらっしゃるでしょうし……」


「え?何でよ、祥子」


「えぇと…あの、1つお尋ねしても宜しいですか?」










キッチンへと向かう蓉子の背中に令は遠慮し、
祥子は自分がやるからと進み出る

しかし蓉子は振り返って首を傾げる


どうして今日は日曜なのに私が疲れていると祥子は言うのだろうか、と




すると2人は気まずそうに顔を見合わせてから真剣な面差しで蓉子と聖に向き直る
















「どうして子どもが生まれた事私達に教えてくれなかったんですか?むしろ妊娠した素振りさえ」


「酷いですわ、私達は何かあるたびにお二方に相談して来たのに私達には何もおっしゃってくださらないんですね」







「「………はぁ?」」

















口を開けてポカンとしている聖と蓉子に

さすがに令と祥子は不自然な空気だと気付いたのか、焦ったように再び顔を見合わせる





しばらく沈黙が支配する部屋の中で、新しいピンクのベビー服を着せて貰ってご機嫌の赤ん坊の笑い声だけが響いた





















そして令と祥子の言いたい意図が判ったのか、聖と蓉子は噴き出す




















「もっ、もしかして私達が子どもを産んだと思ってるの?」



「さすがに無理でしょう?子どもって1年もお腹の中に居るのよ、貴方達に知られずなんて…大体………」















女同士で子どもが出来る訳が無いでしょう、と言う蓉子の言葉に2人は其処で初めて違和感に気付く

















「「…ああ……そういえば…」」
















「あはははっ、ヤバイ!マジウケるっ!!!それであの変な空気だったんだ!?」


「ふふっ、少し考えたら判るでしょうに。それに産んだなら赤ちゃんに何をあげればいいのか相談する訳ないでしょう?」


「だっ、だっていきなり赤ちゃんとか言われたら誰だって混乱しますよ!」


「そうですよ、祐巳なんか天然で『うわぁ、おめでとうございます!何か出産祝いを差し上げないとですね』とか言ってたんですよ?」


「あ、じゃあ祐巳ちゃんにドッキリ仕掛けられるね」


「洒落にならないから止めなさい、聖」














顔を真っ赤にして弁解する2人と正反対に聖と蓉子は赤ん坊を温かい眼差しで見守りながらほのぼのと談笑する

その様子は誰から見ても子どもが生まれた平和な夫婦にしか見えない















「それでどうなさったんですか?この子、親戚から預かったとか?」



「ううん、拾ったの。昨夜」



「…拾った?」



「そう近所の公園の林の中で1人笑ってた」



「でも親とかは…」



「蓉子とも話したんだけどね、迷子になるような年でもないし誘拐されたのだとしたらあんな所に置き去りにする訳ないだろうし」



「あぁ、確かに」



「だから少しだけ面倒見て、綺麗にしてお腹いっぱいにしてあげてから警察に相談しようかって」













聖と令が会話を交わす中、祥子も聞き耳を立てながらキッチンで蓉子の珈琲淹れを手伝う

時折聞きなれない事が耳に入ってきてそのたびに眉を顰めるが、
蓉子のフォローにて納得する














「…ねぇ、折角だからこの子連れて皆でご飯食べに行かない?」



「食事の場に連れて行くにはまだ小さ過ぎるでしょう」



「大丈夫だって、この子全然泣かないもん。本っ当大人しいんだよ」



「あ、そうだ。すっかり忘れちゃってましたけど、来る途中で粉ミルクも買ってきましたよ。店員さんのチョイスなので大丈夫だと思います」



「あ、本当。有難う、だから遅かったんだね」



「ええ、混乱してたのもあって出産祝いとか買うのに迷ってて…」















令から粉ミルクを受け取って、交換するように令に赤ん坊を渡す聖

そして粉ミルクの缶を手にしてキッチンへと入る



赤ん坊を渡されて立ち往生している令は1人リビングへと残されてしまった















「よ、よ〜しよし…聖さま、この子の名前まだ聞いてませんが」



「えっ?…あ〜、名前……知らないや」



「ちょっ、知らないって一晩過ごしていながら全然気に掛けなかったんですか?」



「うん、だって赤ちゃんだもん」



「いや、そりゃ赤ちゃんですけど」



「じゃ〜、で」



「それ今明らかに作りましたよね」



「いいじゃん、そう思えばそんな名前だった気もしてくるでしょ」



「いい加減ですね、聖さま」










「いいじゃない、って素敵な名前だわ」












聖の言動に振り回されながらゲッソリする令にも、気の利く蓉子はフォローする

するとあら不思議
それまで納得の出来なかった事もすんなりに受け入れられてしまうのだ




そう考えると聖と蓉子は本当にベストコンビなのかもしれない





















「そうですね、じゃあちゃん!私は令だよ、宜しくね」



「きゃははっ」














満面の笑みでと名づけられた赤ん坊は応える


の今までの雰囲気と何か違う、と聖は女の勘というかパパの勘で気付いた

















ふとの小さな手がキッチンに居る蓉子に伸ばされ、叫ぶ









「まんまっ!」









続いて聖の方にも空いている方の手を伸ばして、叫ぶ










「ぱんぱぁっ!」































「……やっぱりお2人の子じゃないですか」



「ママとパパ、だなんてはっきり証言していますわ」























2人の視線から逃げられずに目を宙に漂わせていた時


伸ばされた両腕が自分を抱いている令に向けられる















「れい」















「「「……何で令だけ…」」」






































の初恋の始まりは、



今思えばこの時だったのかもしれない







きっと一目惚れだったんだろうなぁと思うと何やら複雑だ

































next...