好きな人の、匂いはきっと媚薬ね



ただ私の心を落ち着かせてくれるの




あの人と同じ香水の香りが街中ですると思わず振り返ってしまう









少しでもあの人の特徴を思い出そうとして、浮かぶのはあの人の甘い匂いだわ























エンジンの音が窓の外から聞こえてきて、料理をしていた手を一旦止める



窓辺からカーテンを捲って駐車場を見ると見慣れたワゴンが1台停車している所だった

思わず顔が綻んでしまう



急いでカーテンを閉めて料理を再開させた






綺麗に盛り付けられたお皿が何枚か食卓に並べられた頃、玄関の扉が開く音がする



首からかけてある大きなエプロンで手を拭いながら、出迎えに向かった











「お帰りなさい」



「只今、今日は早かったんだね」












いつも笑顔を絶やさないさすがの令もクタクタで心なしかやつれているようにも見える


左手に大きなダンボールを抱えて、空いている手でYシャツの第1ボタンを外していた

その背中に回りこんで扉の鍵を閉める









「早めに終わらせたのよ」



「何時に帰ってきたの?」



「そうね、8時くらいかしら」









今度は靴を脱ぎながら、顔だけ私に向けてそう言った

コック帽の痕がついている髪をそっと撫で付けながら微笑むと、嬉しそうに目を細めてくる












「なら、私も早く帰れば良かったな。連絡くれれば良かったのに」




「何言っているのよ、一緒に暮らす時の約束忘れたの?」




「お互いの仕事とプライベートを大切にする?」




「それと、もう1つよ」




「お互いの仕事をお互いのために譲らない、ね。もちろん忘れてなんか無いよ」













靴を脱ぎ終えて、再びダンボールを両腕で支えながら令はリビングに入っていく


その後ろに着きながら祥子はふと顔を傾げた

この家の匂いではない、別の匂い




嗅ぎ慣れている匂いだけど、やっぱり少し違う匂いがした














「うわ、これ全部作ったの?」




「…ええ、そうよ」












食卓に並べられた料理を見て令が歓喜の声をあげて後ろを振り向く

匂いについて深く考えずに、頷くとまた歓喜の声をあげる恋人に自然と頬が緩んだ










「本当美味しそうだよ!最近料理上手になったよね、祥子」




「本とか、テレビの見よう見まねだけど…そう言ってくれると頑張りがいがあるわ」




「そういう事から始まるんだよ、私も最初はそうだったし」




「それもそうね、とりあえず食べましょう?着替えてきて」




「うん」














嬉しそうに微笑んだままダンボールを台所に置いて寝室へと着替えに行く令の背中を見送る


するとたった今寝室へ消えたはずの顔がひょこりと覘いた











「あ、それ店で貰った生クリームとか入っているから冷蔵庫に入れといてくれる」




「ええ」














祥子が頷くと、宜しくとだけ言い残して再び寝室に消えていった


1人になったリビングで、
ダンボール箱を開けて幾つかの紙パックと缶詰を取り出していく




それらを慎重に積み重ねてまとめて冷蔵庫前に運んだ



洋菓子の材料専門のスペースとなっている所に綺麗にかさばらないように入れている時に着替え終わった令が戻ってくる


鎖骨辺りが大きく肌蹴ていて動きやすい部屋着にデニムを着こなしているから、
全然部屋着には見えなかった

尤も祥子も薄い黄色の長袖と長いスカートを着こなしているから部屋着になんて断然見えやしないのだが











「有難う、後は自分でやるよ」


「どういたしまして」











祥子の隣に腰を下ろして、爽やかに微笑みながら続きを請け負う令に祥子は肩を軽く叩いて立ち上がった


すれ違いざまにふと祥子はまた鼻を擽る匂いに気付く





その香りの元は、自分の隣に居る令からなのだと気付いて

顔を背後から近づけた













「っ!?わ、吃驚した…。どうしたの?」




「ちょっと動かないで」




「…?はい」














首だけ振り返って苦笑する令の背中に両手を添えて動かないように促す

素直に小首を傾げながらも頷く恋人の背中に額を寄せた











「……仕事帰りだから汗臭いよ、あまり近付かれちゃうと困るんだけど」




「ふふ、そんな事ないわよ。ああ…やっぱりね」




「何がやっぱりなの?」












1人納得したらしい祥子に、令は身体を反転させて座ったまま向き直る


中腰体勢だった彼女の腕を引いて自分の腕の中に収めた

すると祥子も心を許している証拠の、相手の胸に顔を埋める行為をする












「何の香りかと思ったのよ、凄く甘い匂いがして…。やっぱり令の香りだったわ」




「匂い?」




「そう、凄く甘い匂い。甘ったるさは全然無くて、凄く後にひかない匂いなの」




「…う〜ん、職場の匂いが染み付いているのかな」















自分の頭を優しく撫でながら、苦笑する令に祥子は首を横に振る

















「違うわ、令の匂いよ。貴方しか持ち合わせていないとても心地の良い香りだわ」







「…祥子、今自分が凄く恥ずかしい事言ってるって判ってる?」







「………大いに理解しているわ。それを踏まえての上で言っているのが判らないかしら?」







「あはは、有難う」


















小さな2人の城の、片隅

更に小さな台所の、片隅



冷蔵庫の前で2人は座ったまま抱き合い、




小さく触れるだけの口付けを交わす














それぞれ互いに相手を愛していると想いを込めて…



























好きな人の、匂いはきっと媚薬ね



ただ私の心を落ち着かせてくれるの




あの人と同じ香水の香りが街中ですると思わず振り返ってしまう









少しでもあの人の特徴を思い出そうとして、浮かぶのはあの人の甘い匂いだわ





























fin