何だか眠れない
いつもだったらとっくに眠りについている時間帯なのに…
とりあえず睡眠に入る事に励むのを諦めて布団から出る
家族も全員寝ているから、家の中は静寂が支配していた
大きな音を立ててしまわないように階段を降りて
リビングで紅茶を淹れる
真っ暗な部屋の中に、街頭の灯りが窓から侵入してきている
何をする訳でもなくただ広い部屋の真ん中にあるソファに座り込むと
紅茶を零さないように慎重に口元へ運んだ
温かい液体が身体の中に入り、身体が温まる
その温かさにだんだん眠気も誘われてくるかと思ったけれど
そんな事は一切起こらなかった
ため息が1つ、静かな部屋の中に響き渡る
(江利子さん)
ふと、聞こえたような声に
辺りを見回すけれど
こんな時間にこんな所にあの子が居る訳ないと
自虐の笑みを零す
こんなにも私の心はあの子に支配されているのか…
(江利子さん、助けて)
また聞こえる幻聴
そんな事ある訳ないと判っていても
それでも嫌な胸騒ぎがする
窓を開けて、そこから通じているテラスに出ると
夜の冷たい空気が肺いっぱいに詰まった
庭に生えている大きな木が、その存在を示すように優雅に立っている
あの木の根元で
2人で肩を寄せ合って
顔をこれ以上無理なくらい近付けて
ひそひそと話していたのが
至福の時だったのかもしれない
兄貴達や親父に見つかって
裸足で庭に降りて苦笑している累と機嫌を損ねた私を引き剥がす時も
本当はとても至福だった
ただ、側に居れるだけで
ただ、一緒に笑う事が出来るだけで
「江利子さ…ん…、江利子……」
今度は、幻聴なんかじゃなかった
確かに耳に届いたあの声
静かな真夜中の住宅街に聞こえた
サンダルを履いて、門の所まで行くと
すぐ目の前に人が倒れている
まさか
まさか、と
門の鍵を開ける手がモドカシイ
カチャカチャと、ただ震えるだけで
否、震えているのは私の手だけど
額を一筋、汗が流れる
だって、すぐそこで倒れている人の
周りには
真っ赤な鮮血がアスファルトを赤く染めていたから
こんな時間に
こんな所に
居る訳が無い
ガチャンッ
大きな音をしてやっと外れた鍵
こんな大きな音がしてしまったから、家族の誰かが起きてしまったかもしれない
でもそれどころじゃない
「累!!!!」
無意識にしゃがんで累の身体を抱き起こす
その身体は冷たくて
何よりも息を呑んだのは
「っ何…これ……っ!?」
その綺麗な顔を一刀両断していた切り傷
目蓋から顎まで、真っ直ぐ綺麗に傷がある
「累…っ、累!起きて………」
その頬を
その頭を掻き擁く
「何、寝ているのよ貴方…」
パジャマに血が付こうが何でも良い
「累……お願いだから…」
この子が目を覚ましてくれるのなら
「お願い…お願いだからっ……助けてよぉ!!!!!」
この子がいつもの笑顔で私の名前を呼んでくれるのなら
(江利子さん)
目蓋の裏に
貴方の笑顔が見えた、気がした
涙が目に映る夜の住宅街をぼやけさせていく
私の叫びに、近所の人達も目を覚ましたのか
何事かと窓を開けて見下ろしてくる
そして皆決まって息を呑むから
街路にただ、血だらけの女性が2人居たら
誰でも戸惑うだろう
私の家中の電気もパッと付いた
そして上着を羽織ったお母さんと
兄貴達と親父が血相を変えて飛び出してきた
(江利子さん、私さ)
身体が機能しない
頭も機能しない
ただ呆然としている私をお母さんが揺り動かす
男達は医者である兄貴を中心に血相を変えて累の処置をしようとしているけれど
累と離れたくない
これ以上私達を引き離さないで…
(ただ……、泣ける場所が欲しかったんだ………)
お願いだから、神様
(ずっと…ずっと泣いてない)
マリア様
(……泣けないんだ…………)
もう、この子を……
(江利子さん、私は……)
累を
(私は、私の未来は…何も見えないよ)
悲しみの螺旋から、
苦しみの溝から
(その先に見えるものなど何も無いよ………)
解放してあげてください
ねぇ、令
ねぇ、累
どうして、この世は悲しみばかりなの?
どうして、貴方達程優しい人間が苦しまなきゃいけないの?
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