冷たい水が、火照った顔を冷やしてくれる



顔が冷えるのと同時に頭も何だか急激に冷え切った気がした










蛇口を捻ると水が止まり

水の流れる音だけが響いていたトイレの中が静かになる







濡れたまま顔を持ち上げて、目の前の鏡を見ると



真っ赤に腫れあがった両目の下が痛々しかった

















「はい」










渡されたハンカチで顔面の水滴を拭う


1つ大きなため息を吐くと肩に手を置かれた










「…何?」



「…落ち着いた?」



「ええ」










ハンカチが濡れたのに気付いて、私は目の高さにそれを持ち上げる












「洗濯して返すから」



「いいわよ、そんなの。それより令が…」



「……令がどうかしたの?」



「貴方に渡したい物があるらしいわよ」











私の手からハンカチを取りながら蓉子が言った



顔にかかる髪を鬱陶しく思って左手で全部後ろに掻き上げるけど

あの頃のように前髪を押さえる役割を持っていたヘアバンドはもう無い事を思い出す




再び幾つかの束になった髪が顔にかかるのを何もせずただ見つめた















「じゃ、ありがとね。もう私帰るから」



「え?ちょっ…江利子!送っていくわよ」



「大丈夫よ、山辺さんが迎えに来てくれるもの」



「そう…、ねぇ江利子」



「ん?」















「結婚は、するの?」









































判っている




もう今更昔には戻れない事を






いつまでも累、貴方しか見えないなんて事在ってはいけない事を










実際に貴方が居ない間に彼との結婚を決めたのは事実だから










でも心の中にはいつも貴方が居た、なんて


そんな失礼な事があっていいのだろうか





彼に対しても、家族に対しても

周りの人達に対しても



裏切りの行為としか思えない













でも私はずっとずっと貴方に向けていた想いを突然断たれたのよ?





これまで貴方の事を考えれば大抵の事は乗り越えられた





いつか帰ってきてくれるから


いつか笑い話にしてくれるから





そう思えば、どんな事も乗り越えられた











それを突然奪われる気持ち

判る?








行き場を失くした想いは1人


消え行く事も出来ず






孤独で宙を漂い続けるの










































蓉子の問いに答えられずにただトイレから出て


廊下を歩いていくと先程まで騒いでいた部屋の前を通り過ぎた







少しだけ開いていた襖から奥を窺うと


祐巳ちゃんを中心に、後輩達が片づけをしているのが見える





その顔はどの顔も沈んでいた

けれど



祐巳ちゃんが一生懸命皆を励ましている





そんな和やかな光景にふと笑みが零れた


















「お姉さま」







声のした方に顔を向けると

妹が今にも泣きそうな顔でこっちを見ている










「何て顔しているのよ」







何だかそれにも笑えてきて

令の肩を軽く数回叩いた











「あの、お姉さま…私しばらくお姉さまの前に現れませんから」





「……何言ってるの?」









その泣きそうな顔で


一生懸命笑顔を取り繕いながら令は告げる











「私を見るたびに累の事思い出してしまうと思うので…お姉さまの傷が癒えるまでは」



「何言ってるのよ、貴方は貴方でしょう?貴方があれこれ言う必要は無いわよ」



「でも、皆が私の顔を見るたびに悲しそうな顔をするのに耐えられないんです」



「令……」














「お母さんやお父さんも、私を見て1度息を呑むんです。それから…困ったように笑うんですよ」






























その気持ちは判る


痛い程に判る





令の顔を見ると、ふと累が脳内を過ぎって


どうしようもなく居た堪れなくなるの





そしていつも気付くのよ





令だ、って








この数年はその繰り返しだったから














…ごめんなさい、令



貴方もまた傷つけてしまったわね

















「…祥子も?」







「っいえ、祥子は…!」








「ならそれでいいじゃない、1番大切な人が判ってくれれば」












































きょとんとした顔で、しばらく呆然と突っ立っていた令だけど

だんだん泣き笑いになっていって



慌てて自分の目元を押さえていた
















「ははっ、また泣いちゃった…。累ともう泣かないって約束したのに」





「へぇ、そう」





「あ、これ…お姉さまに差し上げます」
















そう言って差し出されたのは見慣れた懐かしい財布


いつだったか、ズボンのポケットにお金を無雑作に入れているだけの累を見かねて

私がプレゼントした物だった





持っていてくれたのね…こんなに長い間

使い古されて、もうボロボロなのに


それでもちゃんと使われていた形跡がある




それを開くと

1枚の写真が落ちた




拾ってみると、


そこにはあの頃の私と累が居て
ただ寄り添って微笑んでいるだけ


あの目立つ痛々しい傷も無い綺麗な柔らかな顔で





カメラに向かって微笑んでいる


確かに珍しいかもしれない

私がこんなに優しく、カメラになんて向かって微笑んでいるなんて






やっぱり累が居てくれたからなのね


私が1番輝けた時期はこの頃だったのだと改めて思う




















「きっと、お姉さまにも…累は会いに来ますよ。夢の中で」
































夢の続きは


もう見れないけれど









まだ、その夢は見れるから











貴方を想うわ










最後に








最後に1度だけ、貴方に会いたい





例えそれが自分の都合の良い様に作られた幻だとしても



それでも貴方と言葉を交わしたい












末期かしら?






でも、いいでしょう?


最後ぐらい私の我侭を聞いて






















ねぇ、累




貴方にずっと言いたかった言葉があるのよ

























































(珍しいもん見ちゃった、江利子さんがあんなに泣き叫ぶなんて信じられないな)















































next...